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機能不全家族の連鎖による両親と私のゆがんだ関係

家族関係
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このブログのメインテーマは私の息子ですが、その前に環境がわかりにくいと思うので私の家族関係の話をします。

機能不全家族という言葉は、複雑な家族の関係を一言で表すのにとても便利なキーワードだと思います。

昔もあったのかもしれませんが、一般的ではなかったために家庭内の違和感を説明するのは困難でした。

私の両親はそれぞれ機能不全の家庭に育ち、私はその二人の元で育ちました。

今になれば客観的にその連鎖について納得もできますが、渦中にいる時にはそんな分析はできませんでした。

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私の家族が機能不全となる根底にあったもの

機能不全家族とは家庭内に対立や不法行為、身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクト等が恒常的に存在する家庭を指す。

機能不全家族となる要因としては、家族構成員のアルコール依存、虐待(子供への暴言や威圧的態度も含まれる)、共依存などが挙げられる。更に、このような機能不全的な家庭となっている場合は、その家庭を構成する親、または祖父母などが、機能不全家族で育った可能性もある。

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E8%83%BD%E4%B8%8D%E5%85%A8%E5%AE%B6%E6%97%8F

機能不全家族を調べてみると、定義ではないですが上記のように説明されています。

その中には、家族を遡った環境、つまり機能不全家族の連鎖のことも触れられています。

私の父は、認知されないままシングルマザーに育てられましたが、奔放な母親の元で半ばネグレクトに近かったようです。

私の母は、実母を乳児期に亡くしてその親族の元に引き取られ、時代背景もあるのでしょうが、物心ついた時から住み込み家政婦的な存在として扱われていました。

二人は親に甘えることも一般的な家庭も知らず、家族に恵まれず、今こうやって書いているだけでもその身の上は可哀想に思います。

そしてこのことが、機能不全家族の連鎖であると後にわかりました。

両親は、それぞれがお互いにかけがえのない理解者だったのかもしれません。

その関係は、なくてはならない共依存になってしまっていたのかもしれません。

父は子供(私)をあまり望んでいなかったようですが、私は幼い時に父にとても可愛がられました。

母からも溺愛され、常に私のそばには母がいました。

当時、我が家は貧しいけれども安定していて、両親には体力があり、幸せな家庭を作っていこうという希望も持っていたでしょう。

私は、今更両親を分析して批判したいわけではありません。

それよりも、こうして文字にすればその人生の哀しみや痛みのようなものが見えて、改めて理解できるようにも思います。

ちなみに私の両親は今はすでに他界しています。

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父と私の対立には母が関与していた

私と両親の関係が変わってきたのは、私が中学生くらいの時です。

当時、家は事情があって経済的に困窮し両親は不仲でした。

母は、父親のいないところで父の悪口を並べ「離婚したいけどあんたがいるから離婚できない」「あんたさえいなければもっと好きなように生きられた」と私に愚痴を言い続けました。

父は感情の起伏が激しく、いきなり怒鳴って物を蹴飛ばしたり、私が観ているテレビを何も言わずに消したり、私が飲んでいるものをさっさと片づけるというような、嫌がらせのようなことを私に向けていました。

そして、父の気分次第で私は呼びつけられ、正座をさせられ、因縁をつけるようにほじくりかえして理不尽なことを言い出し、言い訳一つ許されず、私が泣くまで延々と説教されていました。

機嫌がよいかと思えば急に何を言われるかわからず、何に怒るかわからない過敏な父と接触するのが怖く、常に息をひそめるようにビクビクしながら父の顔色を見ていました。

でも私がそんな目に遭っても母は止めてはくれませんでした。

私は母に「お父さんと離婚して」とお願いしたことがあります。

だけどあれだけ悪口を言っても、母は簡単に父にひるがえるのです。

父に責められ「お母さんも知ってるよね?こう言ったよね?」と母に救いを求めると「さあ知らない。言ってない。」ととぼけて母は私を突き放す。

いつのまにか2対1で私が悪者になります。

二人の関係性が私には全く理解できず、父も母も味方ではありませんでした。

特に母はずるく信用できない、でも母が好きでとても辛かった。

この時の母をあえて冷静に分析するならば、夫婦の共依存の結びつきを強めるために母が家族内の関係を無意識にコントロールしていたのでしょう。

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母は私の息子を溺愛した

私は結婚して早々に家を出ましたが、結局は離婚して息子を連れ戻りました。

情けないですが、身一つに近い状態で逃げるように離婚したので、他に行くところがありませんでした。

母は孫である息子のことを溺愛しました。

それは父と母と私の息子の新たな家族構成で家庭が再びスタートしたかのようでした。

私に与えられた役割は息子にかかる金銭の負担です。

それはもちろんのことですが、理不尽な内容でも、無理をしてでもそれにすべて答えました。

母の要求に答えなければ父が前に出てきて私が咎められる。

父と母は息子を甘やかして欲しがる物を次々と与え、その経済は私が保障し幸せのバランスが取れていました。

息子のことに関して何か意見しようものなら、気に入らないなら今すぐ出ていけと父に怒鳴られる私は蚊帳の外の人です。

息子を諦めて家を出る

私は父には見つからないように、事あるごとに息子のことで母といさかいしました。

もちろん普段面倒を見てくれているのは母であり、可愛がってくれることに感謝はしているのです。

だけど母は、息子が母親である私を求めることが不安だったのか、何としても自分に繋ぎ止めたかったのでしょう。

まだ幼い息子に、母は呪文のように私の悪口を教え込んでいました。

私と二人で暮らしたらご飯もまともに食べさせてもらえず今頃殺されていたよと息子に言い聞かせているのをしょっちゅう耳にしました。

悪意はないかもしれないけれど、冗談でもそんなことを幼い息子に刷り込むことに私は怒りを覚えていました。

私はずっとそんな環境の中にいたので、どんなに腹が立っても逆らうと父親が母親の前に立ちはだかるという構図がわかっています。

そして、気に入らないなら出ていけと言われるのです。

息子が小学校5年生になった頃、私は家を出ることを決めました。

息子を連れて出ようと思い、校区や通学の変化もないように、実家の近くで二人で暮らせる間取りの家を見つけました。

でも、孫も、おそらくそれに付随する金銭支援も手放したくなかった母は、どんなふうに言い聞かせたか息子は母の元に残ることを選びました。

この時に私はもう息子を諦めようと思いました。

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まとめ

私の家族には機能不全家族の連鎖がありました。

両親の生い立ちを知った時、その過酷な人生に胸が痛みました。

だけど親がどのような育ちであるかなんて子供には関係ないのです。

それは私の息子にとってもそうだったでしょう。

私達の関係に息子もずっと違和感を抱えていたに違いありません。

これが私一人が近所で別居するに至った事情です。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

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