不登校が始まった時、当時の中学側の対応は一言でいうと「腫物はそっとしておく」でした。
特に指導や支援はなく、不登校の生徒はあえて触らない方針だったのではないでしょうか。
学校側の適切なマニュアルもまだなかったかもしれないし、不登校が増え対応マニュアルができたとしても、個別性が大きくて難しい問題なのは今も同じではないかと思います。
当時の学校側の認識はどうだったのか書いてみたいと思います。
不登校の生徒にはあまり踏み込んではいけないという認識
息子は学校を無断で休み続けたわけではありません。
同居している私の母が毎日のように学校に体調不良という連絡を入れていました。
息子は昼夜逆転していて朝は全く起きられなくなっていました。
私の母の説明で学校側は不登校に陥っていることは把握していたはずです。
そして、私の母には「無理に来させなくていいです」と言っていたそうです。
家庭訪問や学校側からの連絡などはありませんでした。
当時の中学校としては、そうとしか言いようもなかったのかもしれません。
だけど状況としては、放置と言えば放置でした。
そしてプリント類などは、近所に住んでいる同級生が届けてくれていました。
学校に行きたいけど行けない
私は別居していたので、毎日息子との関わりがあったわけでも変化を知っているわけでもありません。
電話しても息子は私と話したがりません。
でも実家に出向いて行けば会うことはできました。
もしかしたら強引にこちらから会っていたという状態だったのかもしれません。
当時、家族の誰もがこれをそんなに根深い問題ととらえてなく、ただ息子が駄々をこねているくらいにしか考えていなかったと思います。
そして、元々関係のよくない私達家族は、息子の不登校でよけいにピリピリして、それでなくても苦手な実家でしたが、そこに寄ることは私にも大きなストレスでした。
学校に行きたくないのではない、行きたいけど行けないと息子は言います。
「行きたいけど行けない」が全く理解できず、行きたいなら勇気を出して行きなさいとバカの一つ覚えな説得を続けるだけの私達は、今考えると滑稽ですが対応方法が本当にわかりませんでした。
プリント類を届けてくれる子は、息子と小学校からの同級生です。
内向的で交友関係があまり得意ではなかった息子には数少ない友達で、中学に入っても一緒に通学していたのに、朝、その子が誘いに来てくれても息子は出ていかなくなりました。
ひきこもりがはじまる
息子は、自分の部屋でそのほとんどを寝て過ごしていました。
接触しても表情は堅く、身なりはかまわず、会話をしてもテンポが違って別人のようです。
そして、別居の私はあまり遭遇しなかったのですが、私の母は、早くから息子の暴言にさらされ、それを父(祖父)がたしなめると黙って自室に引きこもる、という状況が始まっていたようです。
私の両親はそのことを私には言いませんでした。
どこに出ていくこともなく昼夜逆転していた息子ですが、学校から「来なくていい」と言われたことは「自分はいなくていい」というように被害的に変換し、傷ついていたようでした。
そして、何かにつけて、こうなったのは家族のせいであるという恨みを口にするようになります。
まとめ
家族にもどのように対応すればよいのかわからないことを学校が指導できるかと言えば、それもたしかに無理だったとは思います。
不登校の事例は今ほど多くなかった時代だったかもしれません。
それでも、そこの生徒なのに他人事、無関心すぎるのではないかと感じたのも事実です。
学校側も何となく「無理をさせてはいけない」という認識だけはあったのでしょう。
そしてうちの場合は、あるきっかけから支援が始まることになります。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
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